私の

これまでの私の生活を鑑みると、一切の努力をしていないことに気づく。私の定義における努力とは、己の身体を酷使してまでも目的達成のために貪欲になることである。身体は資本である以上、病気に罹ったり生命が危ぶまれる状況に陥ることは避けねばならないが、多少の無理はせねばならない。腹が減った、体が気だるい、足が痛い、腰が痛い、蒸し暑い、頭がいたいなど、ほんの束の間の憂慮に妥協をしていいものであろうか。ジェインエアの従兄弟であるセントジョンは宣教師になるという夢を持つ牧師である。例え滝のような豪雨に見舞われようとも彼は自分の夢を引き合いに出し、崇高な夢を持つ自分がこのような小事に踵を挫いていては何になるというのだろうかと己に問うた。これこそ強靭な精神の賜物である。何かを達成するために必要なものがある。それは孤独、専心、そして精神である。先の二項は精神に従属すると言える。精神とは全ての基盤である。朽ちた柱の上に家屋は立たぬ。弱い担ぎ手の上に御輿は奮わぬ。地盤の脆い上に山は聳えぬ。精神の未熟な者の掲げる夢は一抹の泡に過ぎぬ。