夏のおもひで

gcbを拝見した。それまでは良かった。晩夏の原体験の感を得た。剣呑なのは時間の浪費癖にかまけた怠惰である。今朝は気持ちの良い起床とはほど遠かった。というのは昨夜の拝見の余韻に浸ったままネットを漁り共感を得る記事を探ろうとしたためである。結局徒労に終わってしまった。その徒労の残り香が今朝に影響した。まず疲労が完全に抜けぬまま6時に起床した後は、折に触れたとおりの睡眠の重要性が想起され二度寝に至った。二度寝とは剣呑である。脳が覚醒したまま睡眠をとることは畢竟避けねばならぬ。しかし愚者は歴史に学ばぬものである。凡人が経験に学ぶにおいてはまだその徒労が報われるかもしれぬ。しかし愚者は何事からも学ばぬ。それが祟って同様の間違いを二度犯す。愚である。今朝は身体的疲労が祟ってgcbを再び拝見するに至った。夏を感じると表現すれば聞こえはいいかもしれぬ。しかし理性は真実を語る。頭ではその実が伴わないことを十分に理解している。今日の夕方になってやっと全ての娯楽を排斥した。娯楽とは言え媒体で拝見できる瑣末なバラエティである。制約と諦観の話をしようと思う。制約とは設けねばならぬ規約である。それを遵守する下において初めて人間は一を歩む。制約は自由への希求の表れである。諦観はそれを実現するに必要なものである。諦めを知る人間は引き際をわきまえている。これ以上でもこれ以下でもないという地点で止まることができる。そうなって初めて人間は程度というものを知る。程度を知らぬ人間は物事をわきまえぬ。私が頽廃に浸って自宅で従事するあらゆる瑣末な事象はその名のとおり瑣末である。ある人はそうした頽廃が必要だという。しかしそれを甘えということもできる。時間というのは絶対的なものである。しからば絶対的な時間を有効的に増幅することこそ他者に勝る手立てである。つまり如何に困難の伴う事態に陥ろうとそれを改善するために知恵を働かせることこそ人間の尊き性である。最近はニュースという取るに足らぬ情報に踊らされている感がある。大衆がではなく自分がである。それを改善すべくあらゆるニュースは無意味であるということを潜在意識に刷り込まねばならぬ。日頃からそう思い込み、行動の段にあって意識に機先させるのである。