夏の朦朧

人間が他の生物と異なる点は様々です。知能においてそれは明らかであり、意思伝達能力によって明らかであります。殊利便性に関しては圧倒的に長けております。利便性に長けるということはあらゆる生存戦略が効率化に繋がり、種の繁栄という我々の遺伝子に組み込まれた生物的システムの上に如実に反映されます。

全てが便宜的であるように思います。しかし、便宜的であるがゆえに、人間は複雑怪奇な行動をとることがあります。それが自殺です。

種の繁栄という観点から、自殺という行為は非合理的です。例えば、働きアリは女王アリを守るべく、文字通り決死の覚悟で外敵と戦います。そこにある死は厭われません。なぜなら、それが種の繁栄として最適解だからです。自殺はどうでしょうか。自殺をすることで種の繁栄が促進されるということは、まずないと思います。午後のニュースで取り沙汰されて、視聴者各々が思うところを抱きつつ、或いは夕食の銀鱈の照り焼きに気を取られながら、自殺という行為は社会に対しても一過的な情報に終始します。とにかく、自殺という行為は不可思議であります。本当に不思議だ。そんなことを考える今日この頃です。なぜか。昨日、しばしば旧交を温めあった友人が自殺したからであります。

今、私にできること

反省の効能はその正しい用途によって大きく作用する。反省の材料というのは失敗である。仮説と実行の元に裏付けられた失敗である。失敗こそ反省の糧となる。失敗なくして成長なしの原則は周知である。だからといって同じ失敗を重ねることを是としてはならぬ。この事実も同様に周知でありながらその留意に努める人間の少なさには呆れ返るほどである。そして私もその例に漏れないという事実が眼前にある。この事実に直面して平生を保つことが出来るというのなら、それは半ば狂気である。己の人生に直接的に作用する現在という時間にあって、些細な梃入れすら出来ないのであればそれは無能力の証明である。無能力は永遠に祟る。しかしこれを看過する人間の実に多いことである。先ほど私は愚だと称した。愚であれは愚なりに行動を起こさねばならぬ。そうでなくては畢竟愚のまま土に還ることになる。剣呑なのは土に還った愚が浄化されない点になる。愚は往々にし万物に作用する。怠惰こそ愚の最もたる効能である。知性を持つ人間にせめて求められるものがあるとするならば、愚からの脱却である。

続・夏のおもひで

学習に停滞を被ってはならない。だからといって単一の作業を異なる時間分けて取り組むことは斟酌すべきである。経験則的にそうしない方がよかろうということである。とにかく現在は鬱積している。今すぐにでも学習を切り上げたい。全く思うようにいかない。非常に剣呑である。余った時間に何をするわけでもない。家に帰ったら怠惰に耽るに決まっている。そして後悔するのである。それも決まっている。脳がさっぱりとしない。思考が明快でない。前途の雲行きが怪しい。憮然としている。隣の女に神経がすり減らされている感がある。神経質かもしれない。

 

 

昨日あれほど認めた自分の態度も今日にして崩壊した。なんと人間は単純な生き物であろうか。何をするにも億劫である。

 

 

ただ音楽だけがこの世の苦しみの深淵から万人を救う。音楽のない人生は地獄と同値である。だのに凡その音楽家に強いられるのは地獄である。生き地獄である。天賦の才を贈与された人間の為す営みが地獄に等しいとは皮肉である。畢竟微笑も許さぬ皮肉である。ふと目を落とすとキーボードの上に木漏れ日が差し込んでいる。木漏れ日とは名ばかりのブラインドの隙間から射す光である。少量の神々しさを含みながら黒色のキーボードの上を漂っている。稚児の微笑みの感がある。無邪気に棚引く光の点が晩夏の色を象っている。たといそうであるとしても学習に対する億劫は拭いきれない。数学などくだらない。

夏のおもひで

gcbを拝見した。それまでは良かった。晩夏の原体験の感を得た。剣呑なのは時間の浪費癖にかまけた怠惰である。今朝は気持ちの良い起床とはほど遠かった。というのは昨夜の拝見の余韻に浸ったままネットを漁り共感を得る記事を探ろうとしたためである。結局徒労に終わってしまった。その徒労の残り香が今朝に影響した。まず疲労が完全に抜けぬまま6時に起床した後は、折に触れたとおりの睡眠の重要性が想起され二度寝に至った。二度寝とは剣呑である。脳が覚醒したまま睡眠をとることは畢竟避けねばならぬ。しかし愚者は歴史に学ばぬものである。凡人が経験に学ぶにおいてはまだその徒労が報われるかもしれぬ。しかし愚者は何事からも学ばぬ。それが祟って同様の間違いを二度犯す。愚である。今朝は身体的疲労が祟ってgcbを再び拝見するに至った。夏を感じると表現すれば聞こえはいいかもしれぬ。しかし理性は真実を語る。頭ではその実が伴わないことを十分に理解している。今日の夕方になってやっと全ての娯楽を排斥した。娯楽とは言え媒体で拝見できる瑣末なバラエティである。制約と諦観の話をしようと思う。制約とは設けねばならぬ規約である。それを遵守する下において初めて人間は一を歩む。制約は自由への希求の表れである。諦観はそれを実現するに必要なものである。諦めを知る人間は引き際をわきまえている。これ以上でもこれ以下でもないという地点で止まることができる。そうなって初めて人間は程度というものを知る。程度を知らぬ人間は物事をわきまえぬ。私が頽廃に浸って自宅で従事するあらゆる瑣末な事象はその名のとおり瑣末である。ある人はそうした頽廃が必要だという。しかしそれを甘えということもできる。時間というのは絶対的なものである。しからば絶対的な時間を有効的に増幅することこそ他者に勝る手立てである。つまり如何に困難の伴う事態に陥ろうとそれを改善するために知恵を働かせることこそ人間の尊き性である。最近はニュースという取るに足らぬ情報に踊らされている感がある。大衆がではなく自分がである。それを改善すべくあらゆるニュースは無意味であるということを潜在意識に刷り込まねばならぬ。日頃からそう思い込み、行動の段にあって意識に機先させるのである。

なぜ覚えたことを忘れるのか

もはや忘れるために覚えているようなものである。いくら体系化を叫んだところで所詮は一時的な記憶にしかならない。人間は知覚した情報をすべて覚えているという。しかしそれらの情報を思い出すとなると話は別である。畢竟理想的な学習をすればいいだけの話である。現在患っている剣呑も時が過ぎれば無用の長物である。こうして頽廃に浸りかける行為自体、時間の浪費というものである。それに気がついておきながらこの様に鬱憤を書き連ねるのは、経験に学ぶことのできぬ人間の性である。愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶと誰かがいった。言ったはいいがその実は異なる。経験に学べるものは賢者である。そうなれば歴史から学べるものは賢者であろうか。いや、歴史学者とか受験生だろ。まあ後者への言及はどうでもいいとして、経験から学ばぬ愚者という例に私は漏れない。学習に嫌気がさしてならない。これまでその都度幾ばくか内省してきたが、正直無意味というか、どことなく意識高い系の感がして癪である。とにかく勉強おもんない。やりたくない勉強はマジで無駄。さっさとこの環境を脱却したい。

私の

これまでの私の生活を鑑みると、一切の努力をしていないことに気づく。私の定義における努力とは、己の身体を酷使してまでも目的達成のために貪欲になることである。身体は資本である以上、病気に罹ったり生命が危ぶまれる状況に陥ることは避けねばならないが、多少の無理はせねばならない。腹が減った、体が気だるい、足が痛い、腰が痛い、蒸し暑い、頭がいたいなど、ほんの束の間の憂慮に妥協をしていいものであろうか。ジェインエアの従兄弟であるセントジョンは宣教師になるという夢を持つ牧師である。例え滝のような豪雨に見舞われようとも彼は自分の夢を引き合いに出し、崇高な夢を持つ自分がこのような小事に踵を挫いていては何になるというのだろうかと己に問うた。これこそ強靭な精神の賜物である。何かを達成するために必要なものがある。それは孤独、専心、そして精神である。先の二項は精神に従属すると言える。精神とは全ての基盤である。朽ちた柱の上に家屋は立たぬ。弱い担ぎ手の上に御輿は奮わぬ。地盤の脆い上に山は聳えぬ。精神の未熟な者の掲げる夢は一抹の泡に過ぎぬ。

彼女、

最近めっぽう朝に弱くなった。主たる原因として例によった睡眠前の媒体の操作が挙げられるが、これらは明らかに薄弱たる意志の賜物である。先日芸術的思考を吹聴する若者を目にした。はっきり申し上げて私の彼への評価は散々なものである。自分を異端児と形容せんはその愚行において異端であり、本人への期待や憧憬など全くもって喚起されぬ。自らを貶めてこそ人間である。百獣の王はその武力を持って己の辣腕を誇示せんが、人間たるもの己の智恵に目を奪われいては知力の甲斐なく落ちぶれる。己を蔑み向上を図るものこそが人間界において百獣の王にも勝る猛者となる。それを体現せんは私の望むところである。そんなことを考えていた頃にとある少女の殊勝な発言を目にした。メディアの取材に応じた彼女は記者から後輩へのアドバイスを求められ、答えて曰く「助言を行うと彼女の才能を潰しかねない。あいにく私はそのような才能を持ち合わせていない。私のような身分の人間が助言を行うとは甚だしい。」という旨である。この発言を目の当たりにして関心を寄せないでいられようか。年輪を刻んだ人間ならまだしも、彼女というのは年の功二十年と少しである。少女である。何が彼女にそのような言葉を発せさせるのだろうか。それとも環境は関係なしに彼女の為人がためであろうか。この世はまだまだステたもではないと実感に至った昨夜であった。