起きろ、おれ

一度起床した時点で何故もう一度寝ようかと思うのかというと、それは体に残った一抹の疲労感に辟易するからに他ならない。ここで思いついた有益な策として起床直後に媒体を注視するというものがある。経験則的には非常に有効な手段のように思うが、これが果たして起床後の二度寝防止になるかというと不安が残る。人間は枷がないと動かないという不文律を撃ち砕かんと精神性重視の生活に従事してきたはいいが、ここでその甲斐がなくては私の過去の時間はなんだったのかということになる。

とにかく本日の頽廃は紛れもなく二度寝の産物であり、これを矯正しない限りはおよそ先の見えぬ料簡で未来を承知している。5時過ぎに起床したことが手持ち無沙汰になり、何をしようか考えながら眠りについてしまった。二度寝の害悪を唱えて久しいこともあり何をするにも億劫になった状態から抜け出せず、二度寝は疎か終いには三度寝、四度寝の中に誠に心地よい夢を見出すにいたった。是正すべきものを是正せずに人間の精神性は昇華せぬ。

第一に切迫感がない。まるで逼迫した様子が感じられない。やることをやればいいという話かというとまさにそういうことなのだが、そのやるべきことさえままならない状況なのである。

同じ失敗を再度犯さないことは基本中の基本である。基本を侵犯するということは家屋の下の土を取り除くことと同様である。

体きつい

今まで手を焼いてきた長時間同じ姿勢をとり続けることによる身体的疲労だが、どうやらこれが大きく精神的負担に関わるらしい。すなわち、この腰痛こそ学習意欲を削ぐ主たる原因なのである。鬱積した疲労が身体を強張らせ、脳に血液を送らせないでいる感がある。しかし負担の少ない姿勢に移行するためには慣習を変えねばならないのであり、慣習を変えることこそ腰回りの筋肉を増強することで猫背を矯正することに他ならない。矯正の過程で不慣れな筋肉が悲鳴を上げ、それが苦痛となって果ては学習意欲を蝕むのである。一見悪循環のように思われるが、一旦猫背こそ改善してしまえば、すなわち一般的に正しいとされている姿勢に体の筋肉が慣れさえすれば、万事解決に至るという寸法である。もはや身体的な忍耐を期待する暇はない。むしろこれは精神に多大な負担をかける行為であり、強靭な肉体の獲得以前に比類なき精神を獲んがそのもっとも理にかなった手立てなのである。

人間よええ

やはり人間は弱い生き物です。今日痛感しました。正確に言うなら、今日「も」痛感しました。ここ最近は非常に短い周期を伴って頽廃に陥っているような気がします。人は本当に弱い。作用と反作用の関係というものが物の道理として在りますが、人間も同じように、その意思を抑えつけられようものなら反発します。例えその抑制が主体的に成されたものであっても。計画を立て、この通りに行えば理想的であると定めたところで、明日になるとどうでしょうか。三割ほどの達成感も得ず、自責の念に苛まれるということは少なくないことです。どうも人間は、自分の意思を貫徹することにかけて、脆弱であるように思います。かつて心の中の私は言いました。「自分で決めたことをただやるだけでいい」と。確かな経験に基づく計画と反省とが伴っていれば、自ら道を示すことが出来ます。その道を歩んで行き、どう振れるか、振れた後どう動くか、というのが人生であります。今の私は道を進むことすらしない、怠惰で愚鈍な兎であります。兎と例えるのは言い得て妙でしょう。というのも、慢心が伴っているからです。この自尊心にかけては、恥ずかしながら他に退けを取らないものを持ち合わせております。これは愚でしょう。私ははっきり言うことが出来ます。高慢や自尊心は疾患です。しかし皆自分の症状には気づきません。その代わり周りは気づきます。敷いた風呂敷の大きさや上からものを言う態度に症状が現れます。本人が気付いたときには既に遅いのです。周りから人間が離れていくどころか、致命的な挫折が本人を苦しめます。人から蔑まれます。結局何もできないんだな、と思われます。凡人なんだな、と思われます。チンカス野郎なんだな、と思われます。但し、特効薬はあります。それは自分を蔑むことです。極度に自分を蔑み、脳裏に危機感を叩きつけることです。そうすると、自分を蔑んでいたら精神が狂ってしまうのではないか、と思うかもしれません。大丈夫、自尊心に満ちた人間が本気で自分を傷つけることはありません。何故ならそのような人間は、自分は一番可愛いということを、自尊心を然程持ち合わせていない人間よりも、その本能にかけて自覚しているからであります。そうすると、自分で自分をゴミのように扱う方がちょうどいいように思います。この世でもっとも徳のある人間は謙虚な人間です。謙虚な人間は、まずいません。その証拠に、皆、鼻が伸びております。皆、触れるだけの鼻があります。つまり、謙虚な人間はいません。だからこそ、謙虚を目指す姿勢を持つ必要があるのです。そうすれば幾らかは、今私が患っているような状況から解放されるかもしれません。また明日から自分を叱責いたします。死が過るほど打ちのめす所存でございます。

始まり

2014はいくつもの着想を得た年である。次第にそれがまとまっていく内に信条というものが生まれて初めて芽生えた。確たる信念を持つというのはこういうことなのかと、かつて偉人の自伝で断固とした口調で訴えかけられていたそういったものが実感を通じて甦ってくるようで、それは全く喜ばしいことであった。というのも、生活の只中の雑然とした思考や納得ついでにたった一割の発見を求めるような読書においては、中々確信というよりは漠然と感じるところが大半であって、強い信念というのはどういったものかと得体の知れぬまま過ぎて行った人生だからである。この矢が今思い描く前途と同じ軌道を描いてその志す所の的に当たるのか、はた、計り知れぬ人生の機微に作用され、あれよあれよと言うままに実というには程遠き結びとなるかは、正しく神のみぞ知る、who knowsといったところであるが、自分の理想を追って生き、その過程に喜びを見出し、享受される達成や満足というものは他とは変え難い価値を孕んでいる。ハナからこの山だと的を絞り、三半規管の圧迫にも気後れすることなく登頂を果たした山の頂から眺める景色と、志半ばで闇雲に登った末辿り着いた違う山の頂からの景色では雲泥の差があるに違いなく、たとえ後者の山に登り結果論だけに意味を持たせ、前者という選択肢もあったが我というのはまさに歩んで来たこの道よ、と回顧するよりかは、後者のことなど考える余地なく主峰に登りつめ、功となって現れたかつての道のりを眺める方が奮い起つに違いない。そうするためには制限と、自己の世界の繁栄というものを、今属している社会や国家という世界以上に繁栄させることが必要なのである。その極む暁には個人と国家との支配・被支配の構図が幾分違った風に見られることだろう。洗脳の蔓延る世の中では本質は見失われがちである。しかし各々が好きな事をし、協調しあい、理想を追求して生きていくのが最も幸せな生き方である。熟達や一流というのは有無を言わせない。それに近づく為に、合理性をもって、時には金で買ってまでして時間を投資していくのである。そう考えれば考えるほどこれから先の6年というのはあまりにも短過ぎる、しかしそれに気づく者は極々少数である。一分一秒も無駄に出来ないというのは言い過ぎではない。

内心、ブログでは不特定多数に見られている潜在的な意識から、真に自分の弱く醜い部分と向き合うことが不可能だから、どうせそれまでの、まあ、一手段といったところだろうと半ば軽視を持って避けていたのと、やってみても続かない(先に述べた意識下のストレスによって)ということもあって、当分利用することはないだろうと思っていたが、やはり共感を示してくれる人や趣味嗜好のあった人を探したいという気もあって、年の変わり目を契機に始めることにした。

エッセイっぽいことや書籍の引用などをする予定です。