始まり

2014はいくつもの着想を得た年である。次第にそれがまとまっていく内に信条というものが生まれて初めて芽生えた。確たる信念を持つというのはこういうことなのかと、かつて偉人の自伝で断固とした口調で訴えかけられていたそういったものが実感を通じて甦ってくるようで、それは全く喜ばしいことであった。というのも、生活の只中の雑然とした思考や納得ついでにたった一割の発見を求めるような読書においては、中々確信というよりは漠然と感じるところが大半であって、強い信念というのはどういったものかと得体の知れぬまま過ぎて行った人生だからである。この矢が今思い描く前途と同じ軌道を描いてその志す所の的に当たるのか、はた、計り知れぬ人生の機微に作用され、あれよあれよと言うままに実というには程遠き結びとなるかは、正しく神のみぞ知る、who knowsといったところであるが、自分の理想を追って生き、その過程に喜びを見出し、享受される達成や満足というものは他とは変え難い価値を孕んでいる。ハナからこの山だと的を絞り、三半規管の圧迫にも気後れすることなく登頂を果たした山の頂から眺める景色と、志半ばで闇雲に登った末辿り着いた違う山の頂からの景色では雲泥の差があるに違いなく、たとえ後者の山に登り結果論だけに意味を持たせ、前者という選択肢もあったが我というのはまさに歩んで来たこの道よ、と回顧するよりかは、後者のことなど考える余地なく主峰に登りつめ、功となって現れたかつての道のりを眺める方が奮い起つに違いない。そうするためには制限と、自己の世界の繁栄というものを、今属している社会や国家という世界以上に繁栄させることが必要なのである。その極む暁には個人と国家との支配・被支配の構図が幾分違った風に見られることだろう。洗脳の蔓延る世の中では本質は見失われがちである。しかし各々が好きな事をし、協調しあい、理想を追求して生きていくのが最も幸せな生き方である。熟達や一流というのは有無を言わせない。それに近づく為に、合理性をもって、時には金で買ってまでして時間を投資していくのである。そう考えれば考えるほどこれから先の6年というのはあまりにも短過ぎる、しかしそれに気づく者は極々少数である。一分一秒も無駄に出来ないというのは言い過ぎではない。

内心、ブログでは不特定多数に見られている潜在的な意識から、真に自分の弱く醜い部分と向き合うことが不可能だから、どうせそれまでの、まあ、一手段といったところだろうと半ば軽視を持って避けていたのと、やってみても続かない(先に述べた意識下のストレスによって)ということもあって、当分利用することはないだろうと思っていたが、やはり共感を示してくれる人や趣味嗜好のあった人を探したいという気もあって、年の変わり目を契機に始めることにした。

エッセイっぽいことや書籍の引用などをする予定です。